第十三章だいじゅうさんしょう 大正期たいしょうき

第一節だいいっせつ 大正たいしょうデモクラシー

(一)民本主義みんぽんしゅぎ

 大正たいしょうデモクラシーとは一般いっぱんに1913(大正たいしょう2)年の第一次護憲運動だいいちごけんうんどう、および1924(どう13)年の第二次護憲運動だいにごけんうんどうともな一連いちれん政治運動せいじうんどうす。これはたん官僚勢力かんりょうせいりょく政党勢力せいとうせいりょくとの対決たいけつとして展開てんかいされたばかりでなく、学者がくしゃ一般民衆いっぱんみんしゅうもその過程かていにおいて重要じゅうよう役割やくわりたしており、それなりの成果せいかおさめた。たとえば、吉野作造よしのさくぞう(1878-1933)の民本主義みんぽんしゅぎ白樺派しらかばは人道主義じんどうしゅぎ哲学者てつがくしゃらの文化主義ぶんかしゅぎ人格主義じんかくしゅぎなどがそれであった。

 民衆みんしゅう登場とうじょう また、これらの成果せいかはいずれも日露戦争にちろせんそう後のふたつの社会現象しゃかいげんしょう土壌どじょうにしてしょうじたものである。まずは民衆みんしゅう登場とうじょうである。日露戦争にちろせんそうでは日本にほん勝利しょうりしたにもかかわらず、賠償金ばいしょうきんれない講和条約こうわじょうやく調印ちょういんしたことへの不満ふまんから、1905(明治めいじ38)年9がつ5にち東京とうきょう日比谷公園ひびやこうえんおこなわれた民衆みんしゅう抗議活動こうぎかつどう大規模だいきぼ暴動ぼうどうとなり、死者ししゃ十数名じゅうすうめいした。この日比谷焼打ひびやうちやき事件じけん翌年よくねん7がつ東京市電とうきょうしでん値上反対運動ねあげはんたいうんどうなどにられるように、集団的しゅうだんてき民衆運動みんしゅううんどう台頭たいとうは、日露戦争にちろせんそう以後いごあたらしい社会現象しゃかいげんしょうとして注目ちゅうもくされる。

 世界志向せかいしこう もうひとつは世界せかいへの志向しこうである。日露戦争にちろせんそう勝利しょうりによって日本にほん国際的地位こくさいてきちい向上こうじょうがもたらされ、「列強れっきょう」のひとつにかぞえられることとなった。列強れっきょうから自国じこく独立どくりつまも明治初期めいじしょき以来の課題かだいがもはや達成たっせいされたため、今度こんど世界せかい日本にほんとを同一化どういつかし、普遍的ふへんてき視点してんから国内こくない情勢じょうせい見据みすえることが期待きたいされた。

 このふたつの社会現象しゃかいげんしょう背景はいけいに、大正たいしょうデモクラシーの文化ぶんかがやがて

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学習がくしゅうポイント

  1. 大正たいしょうデモクラシーの思想しそう
  2. 大正期たいしょうき庶民文化しょみんぶんか
  3. 大正文学たいしょうぶんがく特徴とくちょう
  4. 西田幾多郎にしだきたろう和辻哲郎わつじてつろう日本文化論にほんぶんかろん

開花かいかする。まず、民衆みんしゅう意思いし重視じゅうしする吉野よしの民本主義みんぽんしゅぎは、おのずから普通選挙権ふつうせんきょけん主張しゅちょう議会主義ぎかいしゅぎにつながっていくが、その根底こんてい民衆みんしゅう登場とうじょうがあるのはうまでもない。また、これまでの政治せいじではしばしば「天皇親政てんのうしんせい」など日本にほん特有とくゆう基準きじゅんから考察こうさつされていたのにたいして、民本主義みんぽんしゅぎにおいては「世界普遍せかいふへん標準ひょうじゅん」をかかげているところに、ほかならぬ世界せかいへの志向しこう反映はんえいされている。

(二)人道主義じんどうしゅぎ文化主義ぶんかしゅぎ人格主義じんかくしゅぎ

 人道主義じんどうしゅぎ 大正文学たいしょうぶんがくにおける白樺派しらかばは人道主義じんどうしゅぎについてもおなじような状況じょうきょう指摘してきできる。武者小路実篤むしゃのこうじさねあつ(1885-1976)が1918(大正たいしょう7)年に宮崎県みやざきけんに「あたらしきむら」を建設けんせつした。たがいにたすってきていくという、ユートピアてき農業共同体のうぎょうきょうどうたいであった。ロシアの小説家しょうせつかトルストイ(Lev Nikolaevich Tolstoi, 1828-1910)の人道主義じんどうしゅぎからの影響えいきょうおおきかったが、その「人類愛じんるいあい」「同胞愛どうほうあい」の精神せいしんは、「我々われわれはもう世界人せかいじんとしてきている」(「人間にんげん義務ぎむ其他そのた」、1919)と武者小路むしゃのこうじ自身じしん宣言せんげんしたように、日本にほん国民こくみんであるとともに「世界人せかいじん」でもあるという自覚じかくもとづいていたのである。

 文化主義ぶんかしゅぎ人格主義じんかくしゅぎ 哲学てつがく分野ぶんやでは1919(大正たいしょう8)年、桑木厳翼くわきげんよく(1874-1946)によって「文化主義ぶんかしゅぎ」がとなえられたが、これが民主みんしゅ平和へいわなどをすべてふく概念がいねんとされている。1921(大正たいしょう10)年に阿部次郎あべじろう(1883-1959)が提唱ていしょうした「人格主義じんかくしゅぎ」も、「あらゆる価値かち」を測定そくていする尺度しゃくどとして定義ていぎされている。いずれも従来じゅうらい国家至上主義こっかしじょうしゅぎ富国強兵主義ふこくきょうへいしゅぎ否定ひていしたもので、世界共通せかいきょうつう文化ぶんか普遍的ふへんてき人格価値じんかくかちあらわしているのである。ここにも日露戦争にちろせんそう後に台頭たいとうした「世界せかいへの志向しこう」がはたらいていたことがかる。

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第二節だいにせつ 市民文化しみんぶんか形成けいせい

(一)文化住宅ぶんかじゅうたく

 田園都市でんえんとし 日清にっしん日露戦争にちろせんそうて、東京とうきょうは「帝都ていと」として郊外こうがいへと膨張ぼうちょうしていった。東京近郊とうきょうきんこう農村地域のうそんちいきは「帝都ていと」へ流入りゅうにゅうしてくる人々ひとびと住宅地じゅうたくちとなった。この近郊きんこう宅地化たくちかは、市内しない隣接町村りんせつちょうそんむす鉄道てつどう交通網こうつうもうかれたことによって急速きゅうそく進行しんこうした。いわゆる田園都市でんえんとし生成せいせいである。

 文化住宅ぶんかじゅうたく 以上いじょうのように、もともと都市とし住宅難じゅうたくなんから出来上できあがった大正期たいしょうき住宅地じゅうたくちぎなかったが、みどりかこまれた生活せいかつへのあこがれを「文化ぶんか」のによってせ、「文化村ぶんかむら」とかかげる宅地開発たくちかいはつすすめられていた。こうした大正期たいしょうきから郊外こうがい環境かんきょう住宅地じゅうたくちてられた中産市民ちゅうさんしみんいえを「文化住宅ぶんかじゅうたく」とぶ。

 和風建築わふうけんちく洋風建築ようふうけんちく要素ようそあわっており、スタイルも一定いっていしていないが、おもに「中廊下式住宅なかろうかしきじゅうたく」と「居間中心型住宅いまちゅうしんがたじゅうたく」との二種類にしゅるいけられる。前者ぜんしゃではいえ平面へいめん中央ちゅうおう中廊下なかろうかはしること、および玄関げんかんわき洋風ようふう応接間おうせつまくことが特徴とくちょうとなっている。どの部屋へやからもほか部屋へやとおらずにいえなか移動いどうでき、プライバシーの確保かくほ便利べんりであるが、中廊下なかろうかくら湿しめりやすいのが問題もんだいになる。

 大正期たいしょうきはいると、住宅改良じゅうたくかいりょうこえこり、居間中心型いまちゅうしんがた住宅じゅうたくあらわれる。廊下ろうかまったくなく、プライバシーこそないが、ちゃぶだいかこ一家団欒いっかだんらん生活様式せいかつようしきにふさわしいいえとなっている。また、小家族化しょうかぞくかすすなか近代的きんだいてき家庭事情かていじじょうっており、いかにも大正たいしょうらしい住宅じゅうたく改良かいりょうえる。

(二)総合雑誌そうごうざっし

 中央公論ちゅうおうこうろん』・『改造かいぞう 大正期たいしょうき代表的だいひょうてき総合雑誌そうごうざっしとしては、政治せいじ社会しゃかい評論ひょうろん中心ちゅうしんとする『中央公論ちゅうおうこうろん』、および社会主義的しゃかいしゅぎてき色彩しきさいつ『改造かいぞう』がげられる。明治期めいじき創刊そうかん前者ぜんしゃはもともと創作欄そうさくらんを中

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しんとしていたが、1919(大正たいしょう8)年に発刊はっかんされた後者こうしゃ刺激しげきによって批判的ひはんてき社会評論しゃかいひょうろんせる総合誌そうごうしへと変貌へんぼうした。両者りょうしゃとも知識人ちしきじん読者どくしゃおお獲得かくとくした。

 文芸春秋ぶんげいしゅんじゅう 一方いっぽう当初とうしょ短編小説たんぺんしょうせつ文芸評論ぶんげいひょうろん中心ちゅうしんとしていた『文芸春秋ぶんげいしゅんじゅう』(1923年創刊そうかん)も、やがて経済けいざい政治せいじなどにその内容ないようひろげ、総合雑誌そうごうざっしになっていったが、『中央公論ちゅうおうこうろん』および『改造かいぞう』のようないきおいものにはなれず、大衆娯楽雑誌たいしゅうごらくざっしとしての一面いちめんのこしていた。また、『中央公論ちゅうおうこうろん』および『改造かいぞう』の急進的きゅうしんてき立場たちばちがい、マルクス主義しゅぎやプロレタリア文学ぶんがくにはむしろ反対はんたい傾向けいこうにあり、おおくの中間層ちゅうかんそう読者どくしゃけた。

(三)映画えいがとラジオ

 無声映画むせいえいが 大正期たいしょうき大衆娯楽たいしゅうごらくとして無声映画むせいえいがおおきな役割やくわりたした。たとえば、1923(大正たいしょう11)年正月しょうがつの「船頭小歌せんどうこうた」(松竹しょうちく)以来、流行歌りゅうこうか主題歌しゅだいかとする小唄映画こうたえいがおおくのひと共感きょうかんんだ。また、階級的不正かいきゅうてきふせい批判ひはんした「下郎げろう」(1927、日活にっかつ)や、資本主義しほんしゅぎしぼられる人間にんげん姿すがたえがいた「ける人形にんぎょう」(1929、日活にっかつ)など、いわゆる「傾向映画けいこうえいが」が注目ちゅうもくあつめた。ただし、このような社会批判しゃかいひはんをする映画えいが内務省ないむしょう検閲けんえつによってカットされるところもおおく、各会社かくかいしゃはやがて方向転換ほうこうてんかんをはじめることとなった。

 一方いっぽう、ラジオ放送ほうそうは1925(大正たいしょう14)年に東京とうきょう大阪おおさか名古屋なごや各放送局かくほうそうきょくはじまった。関東大震災かんとうだいしんさい(1923年9がつ1にち)からもない時期じきだったこともあって、放送ほうそうによって信頼しんらいできる情報じょうほうつたえることの重要じゅうようさは、ひろ人々ひとびと理解りかいされた。

(四)大正期たいしょうき美術びじゅつ

 日本画にほんが分野ぶんやでは1907(明治めいじ40)年に文部省美術展覧会もんぶしょうびじゅつてんらんかい文展ぶんてん)がひらかれて以来いらい日本美術学校にほんびじゅつがっこう派の川端玉章かわばたぎょくしょう(1842-1913)の指導しどうけた平福百穂ひらふくひゃくすい(1877-1933)・鏑木清方かぶらききよかた(1878-1972)らが活躍かつやくしてい

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た。これにたいして、横山大観よこやまたいかんは1914(大正たいしょう3)年に日本美術院にほんびじゅついん再興さいこうして院展いんてんひらき、在野ざいや反文展はんぶんてん立場たちば明確めいかくにしながら、大正たいしょう昭和しょうわ日本画にほんがをリードした。

 洋画ようがかんしては、新鋭しんえい岸田劉生きしだりゅうせい(1891-1929)は1922(大正たいしょう11)年に春陽会しゅんようかい加入かにゅうし、むすめをモデルにした「麗子微笑れいこびしょう」などの人物画じんぶつがえがいた。また、藤島武二ふじしまたけじ(1867-1943)ら文展ぶんてん一派いっぱ対抗たいこうするために、石井柏亭いしいはくてい(1882-1958)らは1914(大正たいしょう3)年に二科会にかかいひらいて日本画にほんが浮世絵うきよえ表現ひょうげんれ、「現代写実主義げんだいしゃじつしゅぎ模範作もはんさく」とたたえられた。なお、竹久夢二たけひさゆめじ(1884-1934)は「黒船屋くろふねや」のような、つぶらなひとみうれいの表情ひょうじょう美人びじん風俗画ふうぞくがえがつづけ、ひろ庶民しょみんこころをとらえた。

岸田劉生きしだりゅうせい麗子微笑れいこびしょう」/安井曾太郎やすいそうたろう金蓉きんよう」(王秀雄おうしゅうゆう日本美術史にほんびじゅつしさつ』、国立歴史博物館こくりつれきしはくぶつかん、2000年)

第三節だいさんせつ 明治末めいじまつから大正期たいしょうきまでの文学ぶんがく

(一)耽美派たんびは

 明治末期めいじまっき醜悪しゅうあく真実しんじつのみを強調きょうちょうする自然主義しぜんしゅぎへの反動はんどうとして、官能美かんのうび追求ついきゅう第一義だいいちぎとする文学者ぶんがくしゃたちがあらわれた。永井荷風ながいかふう谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろう代表だいひょうとする耽美派たんびはである。

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 永井荷風ながいかふう 一時期じき自然主義しぜんしゅぎ作品さくひんいていた永井荷風ながいかふうは、欧米おうべい外遊がいゆうから帰国きこくすると、『あめりか物語ものがたり』(1908)と『ふらんす物語ものがたり』(1909)をいて明確めいかく反自然主義者はんじぜんしゅぎしゃとなった。1909(明治めいじ42)年に『すみだがわ』をはじめとする江戸趣味えどしゅみてっした作品さくひん発表はっぴょうして耽美派たんびは代表作家だいひょうさっかとなった。翌年よくねん、さらに慶応義塾けいおうぎじゅく機関誌きかんし三田文学みたぶんがく』を創刊そうかんして自然主義しぜんしゅぎの『早稲田文学わせだぶんがく』(1891年に坪内逍遥つぼうちしょうよう創刊そうかん)と対抗たいこうした。

 谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろう 一方、東大とうだい文科生ぶんかせい雑誌ざっし新思潮しんしちょう』の同人どうじんとして出発しゅっぱつした谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろう(1886-1965)は、『刺青しせい』(1910)で注目ちゅうもくされ、性的倒錯せいてきとうさく女性崇拝じょせいすうはいなどを特徴とくちょうとする独自どくじ美的世界びてきせかい構築こうちくした。後に雑誌ざっし『スバル』に『少年しょうねん』(1911)などの異色作いしょくさくいて荷風かふう激賞げきしょうされ、文壇ぶんだんへの登場とうじょうたした。さらに1912(明治めいじ45)年に『悪魔あくま』を発表はっぴょうして「悪魔主義あくましゅぎ」(怪異かいい邪悪じゃあくなか見出みいだそうとする傾向けいこう)とひょうされた。

(二)白樺派しらかばは

 1910(明治めいじ43)年4がつ自然主義じぜんしゅぎ耽美派たんびは新思潮派しんしちょうはなどが乱立らんりつするなか雑誌ざっし白樺しらかば』が創刊そうかんされた。はじめから特定とくてい主張しゅちょうって出来上できあがったものではないが、同人どうじんたちがそれぞれの個性こせい十分じゅうぶんばそうとしたところに共通点きょうつうてんられる。すなわち、自己じこかすことを文学上ぶんがくじょう、また生活上せいかつじょう第一義だいいちぎとしているのである。

 武者小路実篤むしゃのこうじさねあつ その同人どうじんには武者小路実篤むしゃのこうじさねあつ有島武郎ありしまたけお(1878-1923)・志賀直哉しがなおや(1883-1971)など、上層階級じょうそうかいきゅうものおおかった。武者小路実篤むしゃのこうじさねあつは『お目出度めでたひと』(1910)などで出発しゅっぱつしたが、後に「あたらしきむら」の建設けんせつによってみずからの理想りそう実践じっせんしようとしたことは前述ぜんじゅつしたとおりである。この時期じき作品さくひんに『幸福者こうふくもの』(1919)などがある。自己じこ個性こせい完成かんせいがそのまま社会しゃかいのためにも役立やくだつ、とかれかんがえている。

 有島武郎ありしまたけお 『カインの末裔まつえい』(1917)で文壇ぶんだん登場とうじょうした有島武郎ありしまたけおは、『おんな』(1919)では自我じが覚醒かくせい社会しゃかい因習いんしゅうとの対立たいりつなや

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される女性じょせい破滅はめつえがいた。また、1922(大正たいしょう11)年に『宣言一せんげんひとつ』などをいて、北海道ほっかいどう農場のうじょう小作人こさくにん開放かいほうした。しかしその翌年よくねん、『おんな』のヒロインとおなじように個人こじん理想りそう社会しゃかい現実げんじつとの葛藤かっとうすえみずかいのちった。

 志賀直哉しがなおや 初期しょきではちちとの不和ふわ反映はんえいする小説しょうせつおおいた志賀直哉しがなおやは、後にその不和ふわ解消かいしょうを『和解わかい』(1917)でえがき、さらに『暗夜行路あんやこうろ』(1921-37)では人間にんげん自然しぜんとの融合ゆうごう目指めざそうとした。

 以上いじょうのように、個人こじん社会しゃかいとの対立たいりつ直接ちょくせつ調和ちょうわしようとする、やや楽天的らくてんてき理想主義りそうしゅぎ特徴とくちょうとするのが白樺派しらかばはであった。その主張しゅちょう観念的かんねんてき抽象的ちゅうしょうてきめん目立めだち、やがて米騒動こめそうどう(1918)をはじめとする、階級かいきゅう対立たいりつりにする内外ないがい社会問題しゃかいもんだい直面ちょくめんし、解体かいたいせざるをなくなった。

(三)新現実主義しんげんじつしゅぎ

 耽美派たんびは白樺派しらかばはによって看過かんかされた現実げんじつを、明治期めいじき写実主義しゃじつしゅぎとはまたちが知的ちてき態度たいどとらなおそうとするのが新現実主義しんげんじつしゅぎであった。おもに「新思潮しんしちょう」から出発しゅっぱつした新思潮派しんしちょうは、『三田文学みたぶんがく』、および『早稲田文学わせだぶんがく』に作品さくひん発表はっぴょうした新早稲田派しんわせだはなどが活躍かつやくした。

 たとえば、『今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう』に題材だいざい短編たんぺんはな』(1916)を『新思潮しんしちょう』に発表はっぴょうして夏目漱石なつめそうせき激賞げきしょうされた芥川龍之介あくたがわりゅうのすけ(1892-1927)が新思潮派しんしちょうは代表作家だいひょうさっかである。永井荷風ながいかふう谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろう影響えいきょうけた佐藤春夫さとうはるお(1892-1964)が三田派みたはぞくし、『田園でんえん憂鬱ゆううつ』(1918)などで都会とかいからのがれる現代人げんだいじん姿すがたえがいた。また、新早稲田派しんわせだは葛西善蔵かさいぜんぞう(1887-1928)が自然主義じぜんしゅぎぎ、『をつれて』(1918)などで自分じぶんまずしい生活せいかつ冷静れいせいながめ、代表的だいひょうてき私小説ししょうせつ作家さっかとなった。

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第四節だいよんせつ 大正たいしょう昭和期しょうわき日本文化論にほんぶんかろん

(一)西田幾多郎にしだきたろう

 「哲学てつがく」という用語ようごそのものがphilosophyにてられた訳語やくごであることからもかるように、明治めいじ30年代ねんだいまでの日本にほんもっぱ西欧せいおう哲学てつがく輸入ゆにゅうしていたが、ついに日本独自にほんどくじ哲学てつがく創出そうしゅつするにいたらなかった。しかし明治末期めいじまっきになると、むやみな西洋文化せいようぶんか摂取せっしゅ疑問視ぎもんしするとともに、日本にほんならではの哲学思想てつがくしそうつくげようとするうごきがこった。

 ぜん研究けんきゅう その最初さいしょ成果せいかとして、当時とうじ京都大学きょうとだいがく着任ちゃくにんしてもない西田幾多郎にしだきたろう(1870-1945)の『ぜん研究けんきゅう』(1911)がげられる。本書ほんしょはいわゆる「純粋経験じゅんすいけいけん」、すなわち理性りせいによる判断はんだん一切いっさい排除はいじょした精神状態せいしんじょうたい追求ついきゅう主旨しゅしとしている。ウィリアム・ジェームズ(William James, 1842-1910、アメリカの心理学者しんりがくしゃ)の「意識いしきながれ」(stream of consciousness)など、西洋せいよう思想しそう示唆しさけながら、西田にしだ東洋とうようの「ぜん」の体験たいけんによって純粋経験じゅんすいけいけんとらえようとした。そして、「」という調和的ちょうわてき境地きょうちにたどりいた。

 日本文化にほんぶんか問題もんだい こうした、ぜんつうじた仏教的世界観ぶっきょうてきせかいかんは『ぜん研究けんきゅう以降いこう著作ちょさくにもあらわれている。たとえば、1938(昭和しょうわ13)年に発表はっぴょうされた『日本文化にほんぶんか問題もんだい』では大東亜共栄圏だいとうあきょうえいけん言及げんきゅうするにあたって、第一次世界大戦だいいちじせかいたいせんにおけるヨーロッパ諸国しょこくあらそいを、「」と「」との対立たいりつとしてとらえた。それにたいして太平洋戦争たいへいようせんそうにおける日本にほんのアジア進出しんしゅつを、「世界せかい」としての日本にほんが「」にてっしたうえで「」としてのアジア諸国しょこくれるという、平和へいわ現象げんしょうとしてとらえた。時代じだい要請ようせいこたえたのか、晩年ばんねん西田にしだ日本にほんのアジア進出しんしゅつを、ぜんでいう「」の境地きょうち解釈かいしゃくしようとしたのである。

 この晩年ばんねん発言はつげんをめぐって西田にしだたいする否定的ひていてき評価ひょうかているが、「純粋経験じゅんすいけいけん」という西洋的せいようてき概念がいねん東洋とうようぜん思想しそうによってとらえるという、西田哲学にしだてつがく一貫いっかんした世界観せかいかんともえよう。

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(二)和辻哲郎わつじてつろう

 1919(大正たいしょう8)年に『古寺巡礼こじじゅんれい』を刊行かんこうしたことをきっかけに、後に京都大学きょうとだいがく東京大学とうきょうだいがく着任ちゃくにんすることになる和辻哲郎わつじてつろう日本文化にほんぶんか関心かんしんせるようになった。また、1927-28(昭和しょうわ2-3)年のドイツ留学りゅうがく体験たいけんが、1935(昭和しょうわ10)年刊行かんこう日本文化論にほんぶんかろん風土ふうど』の構想こうそうむことになった。

 風土ふうど 本書ほんしょでは日本にほんふくひがしアジア地域ちいき風土ふうどを「モンスーンがた」としょうした。そのうち日本にほん場合ばあいなつ太平洋側たいへいようがわでは台風たいふうによる大雨おおあめが、ふゆ日本海側にほんかいがわでは大雪おおゆきがそれぞれるところから、日本人にほんじんはげしやすいと同時どうじ辛抱しんぼうともえ、矛盾むじゅんともえるとされている。また、社会組織しゃかいそしき人間関係にんげんかんけいめんでは日本人にほんじんの「しめ〈湿しめ〉やかさ」が注目ちゅうもくされ、とく緊密きんみつむすばれている日本にほん社会しゃかいうごかす原動力げんどうりょくとなっており、このてんにおいて西欧せいおうがた人間関係にんげんかんけいとは対照的たいしょうてきであるという。そして、このしめやかな家族関係かぞくかんけいは、最終的さいしゅうてき天皇てんのう頂点ちょうてんとする一大家族いちだいかぞくとして日本国家にほんこっかにまで収斂しゅうれんされていく、とめくくられている。

 このような風土論ふうどろんあきらかに国家主義的こっかしゅぎてき傾向けいこうびているが、和辻わつじにあってはその倫理学りんりがく到達点とうたつてんにつながるものであろう。主観的しゅかんてきめん目立めだつとはえ、観念的かんねんてき西田哲学にしだてつがくちがい、和辻わつじ思想しそうはより具体的ぐたいてきで、人間性にんげんせいゆたかな関心かんしんそそいでいるとえよう。

文責ぶんせき黄智暉こうちき

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確認かくにんしてみよう

一、つぎ文章ぶんしょうみ、ただしいものを下記かきからひとえらびなさい。

  1. 大正たいしょうデモクラシーの成果せいかひとつとして、吉野作造よしのさくぞうの(a.人道主義じんどうしゅぎ b.民本主義みんぽんしゅぎ c.民主主義みんしゅしゅぎ)がげられる。
  2. 洋画ようが新鋭しんえいの(a.藤島武二ふじしまたけじ b.岸田劉生きしだりゅうせい c.石井柏亭いしいはくてい)は1922年に春陽会しゅんようかい加入かにゅうし、むすめをモデルにした「麗子微笑れいこびしょう」などの人物画じんぶつがえがいた。
  3. 永井荷風ながいかふう慶応義塾けいおうぎじゅく機関紙きかんし(a.『三田文学みたぶんがく』 b.『明星みょうじょう』 c.『スバル』)を創刊そうかんして自然主義しぜんしゅぎの『早稲田文学わせだぶんがく』と対抗たいこうした。
  4. 短編小説たんぺんしょうせつはな」を『新思潮しんしちょう』に発表はっぴょうして(a.永井荷風ながいかふう b.森鴎外もりおうがい c.夏目漱石なつめそうせき)に激賞げきしょうされた芥川龍之介あくたがわりゅうのすけ新思潮派しんしちょうは代表作家だいひょうさっかである。
  5. 和辻哲郎わつじてつろうの『風土ふうど』では日本にほんふくひがしアジア地域ちいき風土ふうどを(a.「砂漠型さばくがた」 b.「牧場型ぼくじょうがた」 c.「モンスーンがた」)としょうした。

二、つぎ文章ぶんしょうみ、空欄くうらん適切てきせつ言葉ことばれなさい。

  1. 日露戦争にちろせんそうでは日本にほん勝利しょうりしたにもかかわらず、賠償金ばいしょうきんれない講和条約こうわじょうやく調印ちょういんしたことへの不満ふまんから、1905年9がつ5にち東京とうきょうこった大規模だいきぼ暴動ぼうどうを(     )という。
  2. 武者小路実篤むしゃのこうじさねあつは1918年に宮崎県みやざきけんに(     )というユートピアてき農業共同体のうぎょうきょうどうたい建設けんせつした。
  3. 大正期たいしょうきから郊外こうがい環境かんきょう住宅地じゅうたくちてられる中産市民ちゅうさんしみんいえを(     )とぶ。
  4. 階級的不正かいきゅうてきふせい批判ひはんした「下郎げろう」や、資本主義しほんしゅぎらぐ人間にんげん姿すがたえがいた「ける人形にんぎょう」など、いわゆる(     )映画えいが注目ちゅうもくあつめた。
  5. (     )はつぶらなひとみうれいの表情ひょうじょう美人びじん風俗画ふうぞくがつづけ、ひろ庶民しょみんこころをとらえた。

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三、つぎ文章ぶんしょうみ、設問せつもんこたえなさい。

  1. 大正たいしょうデモクラシーの成果せいかはいずれも日露戦争にちろせんそうふたつの社会現象しゃかいげんしょう土壌どじょうにしてはじめて出来できたものであるが、それはなになのか、こたえなさい。
  2. 大正期たいしょうき総合雑誌そうごうざっしのうち、『中央公論ちゅうおうこうろん』と『文芸春秋ぶんげいしゅんじゅう』とではどうちがうのか、説明せつめいしなさい。
  3. 白樺派しらかばは代表的だいひょうてき作家さっか二人ふたりげたうえで、それぞれの特徴とくちょうについてべなさい。
  4. 新現実主義しんげんじつしゅぎ代表的だいひょうてき作家さっか二人ふたりげたうえで、それぞれの特徴とくちょうについてべなさい。
  5. 西田幾多郎にしだきたろう哲学てつがく和辻哲郎わつじてつろう思想しそうとの相違そういについてべなさい。

参考文献さんこうぶんけん

日本史研究会編『講座日本文化史』、三一書房、1971年
石田一良編『日本文化史概論』、吉川弘文館、1978年
久保田淳編『日本文学史』、おうふう、1997年
五味文彦ほか編『詳説日本史研究』、山川出版社、1998年
中澤伸弘『図解雑学日本の文化』、ナツメ社、2002年
小森陽一ほか編『近代日本の文化史』、岩波書店、2002年
大久保喬樹『日本文化論の系譜』、中央公論新社、2003年
岸俊男ほか編『週刊朝日百科日本の歴史』、朝日新聞社、2004年
遠藤嘉基、池垣武郎『注解日本文学史』、中央図書、2005年

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